中道左派になりたい

加藤高明伯「政党なるものは政権争奪の機関ではない。野にあっては、政府が過に陥ろうとするのを警告・匡救し、一旦大命を拝すれば、或いは自分に不便を感ずる事があっても、起って平素の主張を実現する。之が政党の使命であって、その国家に尽す道は、野にあると朝にあるとに依って異なる道理はない」

【憲政会・立憲民政党シリーズ①】立憲同志会の成立から憲政会の成立まで

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このシリーズの記事では、私が愛する憲政会・立憲民政党(立憲民主党ではない)について書いていきます。トップ画像は、立憲民政党の二代総裁の濱口雄幸。教科書で見たことあるかもいるのでは⁉一度では書ききれないので、三度に分けて書いていこうと思います。


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立憲同志会の創設者、桂太郎

①始まりは桂太郎
そもそも立憲民政党は憲政会の後続政党であります。その憲政会のさらに前身が、立憲同志会という政党。大正デモクラシーの始り、第一次護憲運動で生まれた政党です。もともとは藩閥(既得勢力)に属した桂太郎首相(当時)が作りました。政治の主導権を得るために新党を作り、議会を抑えようとしましたが、護憲派(いわば野党)の勢いに押され、効果はさほどありませんでした。その後桂太郎は首相退陣を余儀なくされました。

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桂太郎死後に党内で台頭した加藤高明

桂太郎の死と加藤高明の台頭
桂太郎は退陣後まもなく死去、その後に党内で台頭したのが、加藤高明。三菱の婿であるゆえ、豊富な財力を持つことが、彼を台頭させる理由となりました。彼はやがて総裁に就任します。当時の政党の党首に求められた要素のひとつに、甲斐性があります。当時は政党助成の制度は現在のように豊富ではなく、財力こそがまず物をいいました。選挙とかで莫大なお金が必要ですからね。

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↑第二次大隈内閣の首相、大隈重信、元より加藤高明総裁とは人脈的に近かった。

③大隈内閣での与党化と、憲政会誕生、そして下野
その後、立憲同志会加藤高明総裁のもとで、第二次大隈内閣で政権与党を経験します。加藤高明総裁は、元々は名の知れた外務官僚で何度も外務大臣を経験していたので、立憲同志会総裁として、第二次大隈内閣の外務大臣のポストに就きます。加藤は外務大臣として、第一次世界大戦下での外交を受け持ちます。そんななか、立憲同志会と、その他の小野党が合併し、憲政会が成立します。しかしその後大隈内閣の閣僚のスキャンダルが発覚。内閣は退陣。加藤率いる憲政会も政権から下野します。その後組閣したのは陸軍系の寺内正毅という人物。大隈や加藤とは政治的ポジションは真逆の人物でした。憲政会はこの後は野党として、力を蓄えていくことに専念していきます。


これが立憲同志会誕生から憲政会誕生までの簡単な流れ、↓のウィキペディア立憲同志会のページを見ると、知識の復習に役立つかと思います。次回以降の同シリーズでは憲政会の誕生からの流れを書いていきます。

立憲同志会
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A